竹中大工道具館

大工さんに憧れだした訳ではないのだけど、関心が沸いたことは芋づる式に深めてゆこうと、大工道具を扱った日本唯一の博物館「竹中大工道具館」を訪れてきた。

建物の外観は、いかにも大工さんお仕事らしい木造平屋。

入場券が鉋というのが粋。入ると広い多目的スペースで、「展示はどこ?」と戸惑う。

階段を降りると展示スペースがある。地下2Fまであるというのが、木造建築からは想像も付かない。

展示のメインは大工道具。優れた道具ほど使い倒されて消耗して後世に残らないため、展示されている往年の名機は希少性がある。

木材に着目して、木の種類ごとの香りや手触りを楽しみつつ特徴を学んだり、部位によってどんな木材が得られるか理解を深めたりするような展示もあり。

継手(長さを増やす)や仕口(角度を変えて繋ぐ)を知恵の輪ばりに付け外しできて、精密さに驚く展示もあり。

地下2Fにいきなり茶室が現れる。「無作為の中の作為」への理解が深まり、我が娘が茶室をえらく気に入る。

夏休み宿題の追い込みシーズンなのか、木工教室は待ちができるほどの盛況ぶりだった。スタッフの他、案内して下さるボランティアの方が多い。


道具と人間のユーザーインターフェース

道具館の展示から得た知識もあるけれど、最も印象に残ったのは「道具は手の延長」という考えだった。

先日のDIYワークショップ講師の台詞とも重なる(引用元:オオミシマスペース公式blog)。
「丸鋸がなかったら私はただのオジサン」by 高橋さん
すなわち、「人間+道具=専門家」を前提にすると、道具を持たない人間はただの人間という話。

広い意味で、私が開発してきたのは専門家が使う道具であり、その中でもユーザーインターフェースを担当してきた。インターフェースは「境界」であり、人間と道具の間には境界があることを前提としている。

一方で、一流の大工さんのような専門家にとっては道具も自分の一部であり、もはや道具と人間の間に境界は無い。

道具が組込みソフトウェアで構成される場合は特に、道具を人間の一部にするむずかしい。書籍「コンピューターはむずかしすぎて使えない」の中でも「知覚的なずれ」として述べられている。
バイオリンを弾くのはとてもむずかしいけれど、知覚的なずれは少ない。なぜなら...(中略)...制御がむずかしくても、物理法則に従う。...(中略)...それにくらべて、電子レンジは知覚的なずれがいろいろある。
むずかしいなりに、大工道具のような人間との境界をなくす道具をつくることは究極の目標に据えたいという考えに至った。少なくとも、多機能でむずかしくさせることを避け、物理法則に似せて知覚的なずれをなくす努力を惜しまず道具をつくりたい。


昔の方が技術者らしかった?

大工道具のあゆみを石器時代から振り返る展示を観て感じたこと。
昔になるほど道具の性能が足りないので、大自然から木材を頂くことに敬意を示し、木材を理解することに労力を割いているように思えた。電動の道具があれば、木目を読まずとも力技で切り倒せるので負担は減るんじゃないか。

開発の仕事で「力技ではなく自然法則を上手く活用するのが技術者だ」と釘を刺されたことを思い出す。確かに、時代が進むごとに道具が自然法則を駆使して進化するので、生身の人間が自然法則を理解する負担からは解放される。一方で、極限の性能を出すには自然法則まで立ち戻る必要があるし、力技に頼り過ぎるとしっぺ返しを食らうこともある。

ソフトウェア界で言うと、JavaやC#から入った技術者は便利なGCの恩恵に慣れてしまい、大いなるヒープ領域からメモリーを拝借して還すことには無頓着なので、いざメモリリーク問題が発生すると対処に手間取るような話。
ソフトウェア界で言う自然法則ってなに?ユーザーインターフェースで言うと、自然法則にあたるのは認知心理学や人間工学あたり?という疑問もあるが、ここでは棚に上げる。

節に釘を打つと固くて苦労するし木材を割ってしまうという学びは、原始的な釘打ちだからこそ体験できた意味で、道具に頼らず原始的な方法から学ぶ意義があると気付く。
ものづくりの原点である自然法則に立ち戻ることをリマインドしてくれた、旧石器時代の斧の展示は心に留めておきたい

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